漫棚通信さんの記事、「ゲゲゲのレレレのらららの」(漫棚通信ブログ版、2010/02/16)を読んで気になっていたのだが、書店で平積みになっているのを見て衝動買い。面白かった。
中身も面白いけど、なんといってもタイトルが秀逸。ところで、漫棚通信さんのお子様はらららがわからなかったとのことなので、周囲の人にちょっと訊いてみたところ、三歳下の人はわかったが、九歳下の人はわからなかった。僕なんかにはらららでピンとくるのだが、わかる世代は限られているのかも知れない。
ゲゲゲは誰にでもわかるだろう。アニメ化されて大ヒットし、近年は実写映画が何作も作られた作品のタイトルであり、「ゲゲゲの女房」というドラマが間もなく始まるためにあちこちで宣伝も行なわれており、今もって身近な言葉である。
問題はレレレだ。そういう作品の漫画があるわけではなく、一介の登場人物(名前もついていない、典型的な脇役)の口癖だというだけなのに、どうして万人にこれで通じるのか。漫画のキャラクターの口癖が流行したというと、「おまえはすでに死んでいる」とか「んちゃ」とか「死刑」とかが思い浮かぶが、これらは主人公のセリフである。赤塚不二夫の生み出したキャラクターがいかに強烈で、いかにポピュラリティーがあったかを如実に示す例だと思う。
赤塚不二夫の場合、他にも、「~でやんす」(ケムンパス)「~のココロ」(ココロのボス)「~ざます」(イヤミ)「~だよーん」(ダヨーン)とか、特徴ある話し方のキャラが多くて、よく真似したよな。口癖が流行したといえば「シェー」なんか、まさにそうだ。吉田秋生の「海街Diary」でも、登場人物が「シェー」している場面があって、のけぞったけど、いまだに生きているんだから。
さて、父親を語り始めると終わらないので、ひとつだけ。今も父親が存命で一緒に仕事をしている水木悦子、離婚したため幼い頃に別居した赤塚りえ子はともかく、若くして亡くなり、死ぬまで一緒に暮らしていたにも関わらず、生きている間にほとんど話をすることのなかった手塚るみ子は、そのことが思いとして強く残っているらしい。「ジャングル大帝」のラストシーンに自分の心情を重ねて語る。
あれは三世代にわたる親子の話じゃないですか? 初代王者のパンジャがいて、二代目のレオがいて、そのまた息子のルネがいて。そのルネが父親のレオに反発するんですよ。僕はお父さんと違う、都会に行って、文明的に暮らしたいってジャングルを出て行くんです。でも、人間社会は思っていた世界と違って、挫折してジャングルに帰ってくる。だけど、すでにレオは死んでしまっている。その最期を看取ったヒゲオヤジが、「お父さんの話をしようか」って言って、ルネと並んで平原を歩いていく。それでレオの姿をした入道雲が出ているっていうラストシーン。これって、ルネがわたしなんですね。ずっと父・手塚治虫に反発して、好き勝手してきた。でも、ようやく父の偉大さを受け入れられて、父のもとで何かを始めようと思ったら、そのときはもう父がいないっていう。で、ヒゲオヤジみたいなのが世間にはいっぱいいるの。会う人会う人がヒゲオヤジ。(一同爆笑)(pp.29-30)
クスリと笑える箇所はあちこちにあるのだが、ここは声をあげて笑った。会う人会う人ヒゲオヤジって(笑)。そりゃそうでしょう、娘が手塚治虫を知らないっていうなら、あのね、って言いたい人はたくさんいるよね。オレだって語ってあげたい、小一時間(笑)。もう、笑いが止まらなくて。でさ……、笑いながら涙がボロボロ出てくるのだ。
僕は割と小さい頃に父親を亡くしていて、だからオヤジと何かを語り合ったことは一度もない。いなくなってからも、特に寂しいとも思わず、フツーに暮らしてきたけど、20年、30年経つと、一度くらいオヤジと酒飲んで話がしたかったな、とか思うこともあるわけ。でも、生きていたら生きていたで、きっと何も話しないんだろうな、とも思ったり。るみ子さんは、ヒゲオヤジが周りにたくさんいるだけやっぱりしあわせなんだと思う。僕なんか、誰もいないもの。まあ、天下の手塚治虫と自分の父親を比べてもしょうがないか。
(別ブログより転載/original : 2010-03-12)