鞄に二冊

少しでも空き時間ができると、本が読みたくなる。

「あしながおじさん」

たまたま知人と「あしながおじさん」の話題になり、タイトルと、おおよその話(貧しい少女がある篤志家の援助により上級学校へ進むことができるが、その篤志家は匿名だったため、彼女はあしながおじさんと呼び、感謝の気持ちを込めて学校生活を手紙に書いて送る話)くらいは知っていたが、ちゃんと読んだことがないままこの年齢になってしまったことに改めて気付いた。

せっかくだからこの機会に読んでみよう、と(かねてから考えていた)「少年少女世界の文学」で購入し、読了。

で、こんな話だったのかと、びっくり。この小説のファンの方には申し訳ないが、今の自分にとって、退屈で、かつ、少々気味の悪い話だった。

本書は、設定はともかく、中心になるのは、主人公ジュディがあしながおじさんに書いて送る彼女の大学生活である。あるいは休暇を過ごすロック・ウィロー農園での生活である。この描写が、生き生きとした、興味深いものに感じられ、またジュディやほかの登場人物が魅力的なものとして感じられれば、本作を面白いと思うだろうが、その描写が自分には退屈だったのだ。

退屈に感じられた理由の、少なくない部分は、訳文にあるのではないかと推測している。ジュディが、ある時はていねいに、ある時はなれなれしく、その感情をあしながおじさんにぶつけるのだが、若い女性の言葉はこうでしょうと誰かが頭で考えたような言葉遣いで、自然なものに感じられないのだ。もっとも、この作品の発表年は1912年(大正元年)、訳書自体も40年以上前のものだから、今の自分に自然に感じられなくても、おかしくないといえばおかしくないが……

さて、要約するとこの話は、篤志家がお金を出して女の子を育て、立派な貴婦人にしたところで自分の嫁にする、というもので、まさにアメリカ版の「若紫」である。日本にはそういう話が1000年も前に描かれているのである。年の差婚が悪いわけではないが、自分がずっと援助をしてきた人と、という点に素直に祝福できないものを感じる。たとえばジュディが夏季休暇に友人の実家に招待され、そこに行こうとしたら、あしながおじさんとしての強権でそれを中止させ、自分の実家であるロック・ウィロー農園に行くように命じるわけだから、ていのいいパワハラである。

あしながおじさんの正体に(読者は半分も読まないうちにわかってしまうが)ジュディは最後まで気づかない。そのため、あしながおじさんとして彼女から克明に生活の報告を受ける一方で、実在の人として彼女と接している。ジュディが「中の人」と喧嘩をし、二度と会いません、と言ったあとで、実は会えないことを寂しく思っている、とあしながおじさんは報告を受けているわけで、こうした「二重対応」にも気持ちの悪さを感じる。事実を知ったジュディが、よく怒り出さなかったと思う。

本当は、「中のひと」とジュディは接点はなかったはず。それが姪っ子と同じ大学へ進学し、しかも寄宿舎で同じ部屋になるとは、本当に偶然なのか、まさか手を回したわけではないよね、と言いたくなるのは自分の心が汚れているせいか。

当初は単なる匿名の篤志家のつもりだったけど、ジュディからの手紙を読み続けるうちに、ほだされちゃったんですね。そういう「いい話」なんだということにしておこう。


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(2019/11/26 記)