鞄に二冊

少しでも空き時間ができると、本が読みたくなる。

「思い出のマーニー」

映画を観て感動したため、原作に興味を持ち、購入。複数の出版社から出版されているが、新潮文庫で出ている場合はそれを最優先させるマイ・ルールがあるため、高見訳を選んだ。読み比べてはいない。映画を観たのが7月末だから、読むのに随分かかってしまったことになる。それは、翻訳調が鼻についてなかなか読み進められなかったからだ。外国の小説は滅多に読まないのだが、それは理由があったことを思い出した。

たとえば、本書は次の言葉で始まっている。「プレストン夫人はきょうも心配そうな顔で……。」プレストン夫人! この言い方は相当おかしいと思う。何がおかしいのか考えてみるに、日本語では「社長夫人」や「市長夫人」などは使うけど、「田中夫人」「鈴木夫人」という言い方はしない。「夫人」というのはある人の妻であることを示す言葉であって、単独の女性を表わす表現ではないのだ。

キュリー夫人」とか「ポンパドゥール夫人」とか、外国人の場合には使うが、これは要するに「ミセス」か「マダム」の翻訳語として捻り出した言葉なんだろう。本来の日本語ではないのだ。

そして三行目でこのプレストン夫人がアンナにキスをするが、日本では親子・兄弟など家族であっても(夫婦でも、人前では)キスはしない。もちろん海外ドラマなどでは頻繁に見られる行為であり、英米では普通だということは多くの人が知っている。この小説の舞台はイギリスだから別におかしくはないのだが、そのため「これはよその国の話」だと冒頭で宣言されているようで、感情移入がしにくい。

常々思うのだが、こうした場面をここまで正確に訳す必要があるのだろうか。「手を握った」とか「頭をなぜた」とか、素直に受け取りやすい、日本の何処でも見られる情景に変えた方が自然ではないだろうか。

それを考えると、舞台を日本(北海道)に移し、マーニー以外の登場人物を全員日本人にしてしまったジブリは見事だったと思う。言葉遣いや態度が、ちゃんと日本になっていたのだから。見ていてすんなり溶け込めたもの。

映画と比較すると、映画では初めからマーニーの存在が怪しかった。当初から「マーニーって誰なんだろう」と観客に投げかけていた。短い時間で決着をつけるためもあるのだろうが、その方がフェアだったと思う。小説では、風車小屋の事件があって、仲直りし、別れがあり、アンナがだんだんマーニーのことを思い出さなくなって、それからリンゼイ一家が越してくる。しかし映画では、マーニーと杏奈が納屋に閉じ込められるのは、さやかの登場後(マーニーの日記が発見されたあと)である。これは実にうまい構成だ。この時にはマーニーの正体はわからないけれども、観客に対してちゃんとタネをバラしていることになるからだ。

小説にあった、ボートの錨のエピソードが映画で省かれていたのは残念だった。アンナの人柄と成長ぶりを示すよいエピドードだと思う。尺の問題で、致し方ないところだが。

幼い頃にアンナが持っていた館の写真は、小説では紛失したことになっている。が、映画では実に効果的に使われた。こういうことひとつをとっても、ジブリの脚本力のすごさに舌を巻かざるを得ない。尺を短くすること、舞台を日本に移すことのほかに、小さなエピソードの使い方がより効果的に改変されているのだ。アンナを日本人にしたため、無理も生じたが、それを逆手にとって、杏奈の目がかすかに青いという設定を入れてより杏奈の疎外感を際立たせ、かつ、ラストに向けての大きな伏線を張るなど、なかなかできることではない。ただし、マーニーとアンナの名前は、実はもともと同じだった、というエピソードはさすがに適用できなかった(だから写真のエピソードを使ったのだろう。そういう意味ではプラマイゼロだろうか)。

思い出のマーニー (新潮文庫)

思い出のマーニー (新潮文庫)