鞄に二冊

少しでも空き時間ができると、本が読みたくなる。

「ある閉ざされた雪の山荘で」

1996年1月15日刊。単行本は1992年3月刊。

映画を見て、原作を読みたいと思ったが、kindle版がなかった。改めて後日、映画館のあるショッピングセンターへ行き、BOOK OFFとくまざわ書店を見たが、置いていなかった。東野圭吾の本はたくさんあったけど。BOOK OFFは調達の自由度は低そうだから致し方ないが、くまざわ書店は、同じ建物の中で現在上映中なんだよ? 平積みにしておくべきでは?

結局、さらにその後、有隣堂へ行ってようやく入手できた。さすがは有隣堂だ。

さすがといえばさすがに東野圭吾というべきか、さくさくして読みやすい。最近は活字の本を読むのにたいそうな時間がかかるようになってきたが、本書は二日ほどで一気に読み終えてしまった。

映画を見た時に、面白いことは面白かったが、気になる点があるといって以下の点を挙げた:

  1. 「チャンスは全員に平等」と言われている中で、殺されたことになっている人が退場していくのは不思議
  2. 途中リタイアしようとする雨宮を皆で引き留めるのも不思議
  3. 花瓶に血糊ではなく「本物の血」がついていたというだけで、死体も切り取られた手足もないのに「本当に殺人が行なわれている!」と皆が思い込むのは信じられない
  4. 結局、この「合宿」の主催者は誰だったんだろう?

原作ではこうした疑問はわかなかった。

  1. この合宿は、主役を決めるオーディションではなく、役作り・ストーリー作りが目的
  2. 雨宮はリタイアしない
  3. 本当に殺人が行なわれていると皆が思い込む、もっともらしい説明があった(それでも現実には、死体を見ない限り誰も信じないと思うけど)
  4. 小説では納得できる説明があった(映画でも説明はあったものの納得できなかった)

尺の問題もあり、やむを得ない事情があったのだろうが、小説の方がわかりやすく、瑕疵も少なかった。

映画では、全員の携帯を集めるところから始まる。ドラマだからすんなり差し出したけど、緊急連絡が入ることもある(家族が病気になるとか)から、本当は四日間も手放すことに簡単には納得できないはず。小説には携帯の「け」の字も出てこない。1992年の作品とあっては当然。

小説で盗聴器が出て来るのも笑えた。盗聴器の届く範囲は狭いから、聞く人も近くにいなければならない。現代では、ライブカメラでも仕込んでおけば、全国どこにいてもスマホで様子を見ることができる。

映画では「長らく映像化は困難とされてきた」と喧伝されており、最新技術で実現したものと受け取ったが、考えてみると30年前と現在とでは、現在の方が格段に「雪の山荘」は作りにくくなっている。

もうひとつ大きな違いは、ペンションの間取りが小説と映画ではまるで違ったことだ。小説の間取り図は正直なところかなりいい加減だ。部屋同士の位置関係だけが正しく、縮尺が適当なのだろう。ただ、あの部屋とこの部屋がつながっていることが重要なのに、映画では変わっている。恐らく、カメラを仕込むことによってどこにいても部屋の様子が見られるところから、あそことあそこが隣り合っている必要性がなくなり、その制約を取っ払って現実性の高いペンション風の間取りにしたのではないだろうか。

また、ラストシーンに関しても映画の方がよいと思った。映画を見ている時は少々くどいと感じたが、小説はスパッと終わり過ぎで救いがない。ここから先の未来を、小説は読者の想像に委ね、映画はひとつに決めてしまったとも言えるが、読後感は映画の方が上だ。