鞄に二冊

少しでも空き時間ができると、本が読みたくなる。

「春にして君を離れ」

英国の発表は1944年8月。中村妙子訳の初出は1973年、クリスティー文庫版は2004年4月刊。

ジョーン・スカダモアは、ロドニーを夫に持つ主婦。一男二女がいる。結婚しバグダッドに住んでいる末娘の急病の知らせを受け、家事を手伝うべくバグダッドへ行き、娘が快方に向かったためイギリスに戻る途中の三日間の出来事を描いたもの。

トルコ鉄道の終着駅「テル・アブ・ハミド」で鉄道を待っていたが、一帯を襲った豪雨のため交通網が寸断され、復旧まで数日を鉄道宿泊所で独りで過ごす事態に陥る。知り合いもおらず、訪ねるべき場所もない砂漠の中で、持ってきた本も読んでしまったため、やることのなくなったジョーンは、これまで家族と過ごした日々を思い返していた。

ジョーンは良妻賢母であり、家族を深く愛しており、彼らが何を考えているかもよくわかっており、間違った行動を取りそうになった時は示唆を与えて是正させ、大きな間違いを犯さずに済んだことは数多く、自分の差配があってこそ家族はうまくやっていられるとの自負もある。美人であり、いまだ20代の肌の艶を保ち、上品であり、教養もあり、思いやりも深い……と自分では思ってきた。

が、周囲の人に対しては欠点を見つけては優越感に浸り、憐れみをふりまくだけの存在であり、家族に対しては相手の言い分を聞かず自分の考えを押し付けるだけ。それは友人選びから服装、進路、職業の選択にまで及ぶ。いわば毒親であった。これは夫に対しても同様であった。

ふとしたきっかけから、自分が思い違いをしているのかも知れないと思い始めたジョーンは、過去の様々な場面でのやりとりを検証することにより、残酷な事実に近づいて行く……

本作はミステリーではないが、ひとつひとつの言葉や態度の蓄積から(ジョーンと読者が)真実に近づいて行くステップは、よくできたミステリーのようでもあり、引き込まれるところ。

一方、自分ではうまくやったと思い込んでいたことが、実は相手を傷つけていた、と言われると、我とわが身を顧みざるを得ず、そうして思い当たることのない人はいないだろうから、随分と心を抉る作品でもある。

読んでいる途中で、ジョーンは悪い女だ、酷い奴だと思うのだが、よく考えてみると、周囲の人にも責任がないわけではない。ロドニーにも悪いところはある。いくらジョーンに逆らえなかったからといって、自分の人生を捨てることはなかったのではないか。子どもたちも、近所の人も同じ。ずいぶんと考えさせる小説である。

ラストシーンはこの上ない残酷な情景だ。

一ヵ月くらい前だったと思うが、何かで本作が話題になり、読んでみようかなとkindle版を購入。その後、昔買った紙の文庫本が出てきたため、本作は紙版で読んだ。ポケットに入れて持ち歩き、ちょっとした空き時間に読み進める、昔ながらのスタイル。これに関してはちょっとノスタルジーを味わった。

なお、巻末の解説は(中島梓ではなく)栗本薫だった。



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